人生の指針

頭を整理するために思ったことを書いてます

世間と高専の関係性

制服が嫌いだった。女の子たちがあの学校の制服が可愛いから、あの高校を受験するという話を聞いて。「こいつら、正気か?」と本気で思っていた。

けれどよく考えれば近くに、私服の高校はないので、毎日着るものなら可愛いほうがいい。

華のJK時代を着たくもない制服で飾るより、可愛い制服を着て青春するほうがよっぽど理にかなっている。

そんな中。僕は私服の学校を選んだ。家からは通えない距離の学校、親元を離れ寮生活を送った。

はじめは私服投稿に満足をしていた。毎日違う服が着れる。縛られなくてすむ。

心が自由な気がした。

だが、徐々に生活リズムが崩れていく。気がつけば毎日同じジャージで登校していた。

朝服を選ぶのが面倒くさい。そんな時間があるならギリギリまで寝ていたい。

遅刻すると思えばパジャマで学校にも行った。

(もちろん洗濯はしている。)

 

そもそも何故制服ってあるのだろうか。なぜ第一ボタンまで締めなくてはならないのか。

なぜスーツをきて、ネクタイを締めるのか。

制服の存在そのものを否定したかった。

制服やスーツを少し洒落にアレンジして、個性を出そうとするのは、せめてもの抵抗なのだろうか。

僕には理解ができなかった。

 

僕は中学時代、風紀委員を務めていた。

中2の頃授業中に漫画を読んでいて、

先生に当たり前のように叱られ、「来季は風紀委員させません。」とまで言われた。

来季に当たり前のように立候補をし、土下座をして風紀委員になった。

 

僕は風紀委員会にて

「制服ではなく、私服にしましょう。そうすれば僕たちが制服チェックをしなくてすみます。」

僕の叫びは虚しく、風紀委員会と書かれた黒板に吸収されてしまった。

後ろから隣のクラスの風紀委員が「私服にしたところで、どうせやることは変わらない、

私服チェックとか言って、服装違反の規則が増えるだけだよ」

いや、私服なんだからどんなんでもいいだろう、規則を設けないための私服なんだろうが。

という言葉を飲み込んで「確かに。」と同意した。

 

制服を好む人、疑問を持たない人は、社会からあぶれるのが怖いんだ。

だからみんなと同じ制服を着て、目立たないようにするんだ。

けれどそれが集団としての正しい行動なんだ。それこそが社会の象徴なんだ。

無言の圧力。同調効果。これを乱すものは、「空気が読めない」 「変わり者」と一蹴され、

社会不適合者のレッテルをはられる。だからこそ他人の目を気にするんだ。

他人とは誰なのか。「あの人昨日やらかしたらしよ。」「あの人SNSでこんなこと言ってた」

「あの人付き始めたらしいよ」

他人とは、あの人とだれなのか。それは世間だ。

この国の人は良くも悪くも世間を気にする。(自分も含めて。)

それが故に、ライフラインが整備され、道がきれいであるのだ。

世間を大切にすれば、自分も世間に守られる。

世間を一瞬でも裏切れば、大変なことになる。

 

しかし、パジャマで学校に行ったときや、ほぼ毎日ジャージで通っていたとき、

学校があるのに朝まで人生ゲームをし、夕方に起きバイトに行く生活をしていた時は、

世間から隔離されていた気がする。

もしかしたら、高専の領地は世間の支配が及ばない、治外法権の領域なのかもしれない。