何者
沸点は低い方だった。なにかに熱中するのは早いほうだし、熱中すると、そのことばかり考えてしまう。
だからその物事に対しての探究心が強くなり、様々な情報を集めようとする。
しかし沸点が低い代わりに融点が高いのだ、熱が冷めてしまうのが、早く、せっかく仕入れた知識、経験を活かすことなく、どこか頭の引き出しにしまってしまう。
器用貧乏とよく言われていた。それを批判と捉えたことはなかったが、今の自分の人生を振り返ると、ものすごくつまらない人生と言われているような気がした。
何でもできるが、特に何も出来ない。
つまり、何者でもないのだ。
思い返せばずっと、何者かになりたかった。
何者かにならないと退屈でいきていけないと思っていた。
今もそうだ、必死に何かになろうと努力はしている。
器用貧乏の悪さが出た、秀でたものがない、この時代は秀でたもので戦う時代だ。
すべての武器の扱いはわかるが、実践での経験が弱い。
何者でもないことはどこか欲求不満さを感じている。
そもそも自分の人生においてなにか楽しいことはないか心踊る瞬間はあったのだろうか。
熱量が琴線に触れた瞬間はあったのだろうか。何度も自問自答していた
そんな折尊敬していた"スーパー人間"がアメリカに日本語教師として行くことになった。
その時に更新したInstgramに何故か唐突に衝撃を受けた。
自分の人生とここまで違う生き方をしている。
目的がはっきりとして、その目的を叶える適切な努力ができ、
彼はスーパー人間であり、日本語教師という僕とは真逆の人間だった。
真っ白な僕と色鮮やかな彼。僕は彼にあったときに唐突に質問をした
、「どうして、そんなことが生き方ができるんですか?」
日本語教師という天職にたまたま出会えた。そして自分の人生を逆算すること。ざっくりでいいからゴールを考えろ。そこから中間ゴールを立てて、それを達成していくだけだ。
腑に落ちない。
多分、そんなことが聞きたかったんじゃない。
そんなことはわかっている。自分が努力できないことも、人に流されて心の赴くままに生きてきた人生だから。
目標に努力ができる彼のような"山登りタイプ"と流されて生きる"川下りタイプの人間"
僕がスーパー人間に言ってほしかった質問の答えは"わからない"だった。
そうか尊敬する人もよくわからず人生を生きているんだな、
衝撃を受けたInstgramの投稿はSNS上のリップサービスだなと思いたかった。
だが実際はそうではなかった。ちゃんと努力をしている。
もちろん運もあるが。運で結果が変わるほどの努力をしているのだ。
そして第2、第3のバックアップのプランもあった。
すべてを出し切る努力をし、満足したと思えたなら、別に路上で死んでも構わないとも言っていた。
僕は死ぬときはこういう弔事を読んでほしいということは考えていた。そういう人間になろうとしていた。
けれど、それは、所詮他人からの評価で成り立った人生だったのだ。
他人からどう思われようが関係ない自分の人生を生きるだけと。
行動が真逆ならば発言も真逆だった。
僕は器用貧乏が故に努力の仕方がわからなかった、嫌味ではなく本当に。
自分は冷めた人間なんだと自覚していた。
なぜなら自分は川流れタイプだから。
川流れタイプは楽なのだ。大した努力をせずになんだかんだうまくいく、
でもそれは自分の力で得たものではないのだ、だからこそ、なおさら努力をしなくなる。
でも、スーパー人間の発言からそれはそれでいいのだと思った。
別に川下りタイプだって良いのだ。
そもそも何者かになるのをやめるだけでいいのだ。
何者かと言うのは他社から見た自分でしかなく、他者から認めらたい欲求の現れだったと思う。つまり他者依存によって成り立つ自分であって元来の自分でないのだ。自分自身がこれでいいと思える人生だったのならば
何者かになる必要なんてまったくない。
世界からの見られ方を変えるよりも世界の見方を変えたほうが楽なのだ。
自分自身で人生をhardモードにしすぎていた、もっと人生は簡単なものだった。
とりあえず、自分自身を高めるために、携帯の着信音をドラクエのレベルアップの音楽に変更した。