人生の指針

頭を整理するために思ったことを書いてます

後輩が苦手

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後輩が苦手だ。僕は、同期の中でも歳上なのであれば敬語を使っている。

同期なのだからタメ語でいいよと言われていたが、今では「お前はずっと敬語でいてほしい。」

と言われていた。根っからの後輩気質なのだ。

そんな後輩気質の僕にも一個下の後輩ができた。僕は高専卒なので、後輩でも年上の人もいた。

後輩の歓迎会が開かれた、僕は後輩とタメ語で話をしていたら

「お前、後輩の前ではそんな感じなんだ。」といじられた。

同期からも「こいつと後輩が話すのを見るのが面白い。」とよく言われた。

けれど、僕は先輩の前ではおちゃらけて、後輩の前では相談に乗る。という自分を偽ったことはない。

多分、人格が違うのだ。多重人格ということではない。

言葉を借りるならば、平野啓一郎さんの「ドーン」という小説に出てきた「分人(ディブ)」という言葉がしっくり来る。

先輩といる自分、後輩といる自分、彼女といる自分、会社での自分、友達のグループによって立ち位置の変わる自分。

人には様々な自分がいて、その全てを「分人 (ディブ)」としていた。

 

僕が会社の飲み会が苦手になったのは、後輩が入ってきてからだった。なんとも言えない居心地の悪さがあった。多分それは先輩に他する分人と、後輩に対する分人、同期に対する分人を瞬時に切り替えていたからだろう、他人から見れば八方美人と言われるかもしれない。

 

後輩が苦手なのは、分人が定まっていないからだと思う。

先輩に対する分人は、良いテンポで話を聞き、適当なツッコミや相槌を入れれば良いからだ、

ヘラヘラしていれば、なんとかなる。

 

しかし、後輩はそうは行かない、向こうが僕の話に相槌を打ってくるからだ。

ある日、後輩からご飯に誘われた。断るわけにも行かず。けど予定がない暇な先輩と思われるのも嫌なので、少し時間をおいて「おけ」とだけ連絡した。

後輩と合流した。なにか悩みがあるのか?先輩として聞いたほうが良いのか?とも考えた。

それに僕は自分の話をするのが苦手だ。先輩たちはよく自慢話をしてそれを聞いているだけで良かった。先輩ってすごいんだなと思った。僕は迷った挙げ句最初の話題提供では突拍子のない話をしてしまった。

花より男子のF4の中で誰が好き?」

「すいません、花より男子見てないです。」

って言われてしまし、一個しか変わらないのに、ジェネレーションギャップを感じるとともに、崖ぷちに追いやられた。

プライベートの飲み会で、仕事の話をするのも嫌い。けれどプライベートに土足で踏み込んで良いものか。とも考えてしまう。すると後輩から話を始めた。「同期に聞いたら、僕たちのGr.で一番話しやすいのが安田さん、とみんな言っていたので、誘ってみましたけど、迷惑じゃなかったですか?」

と言われた、多分僕は今までの考えていたことを全て忘れてしまうくらい笑顔になった。

その笑顔を見ると、「何ににやけてるんですか、気持ち悪い。」と言われてしまった。

その後輩とは、プライベートでも遊ぶくらい仲良くなった。二人で劇団四季を見に行くくらいだ。

食べ物の趣味も、車の趣味、好きなタイプ、も全く異なる。

僕は濃い味が好きだし。後輩は薄いのが好き。

僕はMINIに乗りたいし、後輩はMINIを悪く言う。

僕は大人っぽい人が好きだが、後輩は年下が好き。

 

別の日、仕事終わりに後輩と焼き肉に行った。

すると後輩が話し始めた。「僕先輩とご飯とか、飲み会とか大嫌いなんすよね、気使うから。」

やっぱり合わない、俺は後輩のほうが嫌いだ。先輩のほうが楽だ。

「やっぱり、合わんな、俺後輩苦手やもん。てか俺先輩やぞ?」

「いや、僕も後輩じゃないですか、けど安田さんは先輩というより友達ですね。」

僕は笑顔になった。

 

占い事情

友達と2人で居酒屋で飲んでいた。

カウンターに座りお酒を交わしていた。

すると横にいた、女性2人組に話しかけられた。

「私、占い師 やってたのよ。暇だから、君たちを占ってあげる。

大丈夫、お金は取らないから。」

 

僕たちは、急に話しかけられてびっくりしたが、お酒も入っていたので、

占いをお願いした。手相や店の割り箸で占いを始めた。

手相で僕は「こんなにきれいなマスカケ線を見たことがない。」と言われた。

誇らしかった。「大器晩成型だから、地に足つけて生きなさい。けれど心はノミのように小さい小心者だね。」と言われた。

ノミのように小さい。器がノミのように小さいのではなく、小心者という意味で良かった。大器晩成型のことはすっかり忘れ、ノミかぁとしか思わなかった。

 

友達は手相は至って普通だった。そして次にお店の割り箸をいきなり投げ始めて、それを見て

「君は、近いうちに結婚を決めることになる、けれどそれはなにか強制的なものだ。」と言われていた。

 

僕は占いはあまり信じていない。娯楽程度に楽しんでいるが、鵜呑みにはしていない。

理由は結果が良かろうが悪かろうが、やるべきことに変わりはないからだ。

一生懸命生きる。これは占いの結果に左右されるものではないからだ。

 

僕は、占い師の人に色々質問をした。

「どうして占い好きな人は、所詮占いでしょ?って言ったら怒るんですか?」

「それは怒られるよ。だって、占いを信じる人も心のなかではそう思っていて、

どこか頑張って生きている人に劣等感を抱いているけど、それを認めたくなくて占いを信じているのだから。」

なるほどと思った。みんな気づいているのか。そうだよな。

立て続けに聞いた。

「ラッキーアイテムとかはどう決めるんですか?」

「最初の頃は、タロットとかで決めるんだけど、何回もやってくると、なくなってくるから、

目についたものを書いてるよ。」

書いてる?この女性の占い師は元々雑誌とかに月間、今週の星座占いなど掲載していたらしい。毎回おとめ座らへんでものが尽きるらしい。

ラッキーアイテムは目についたものか。占いの世界にも色々あるものだ。

僕は何度も質問を続け、占いの裏事情を聞き出そうとしていた。

「街中にポツリといる占い師は、どうやって生計を立てているの?」

「あー、あの人達は多分。弟子を雇ってる。大体は占いオタクから始まって、

興味の有りそうな人に、君才能あるよ。と言って、弟子を取り、そのレッスン代で生計を立てていると思うよ。」

なるほど。そこらの道場とかと同じなわけだ。弟子を取り師範となる。ならば占いの世界にも師範代理とかランク付けがあるのか?

 

「実際のところ占いって本当のところは見えてるの?」

「ついにこの質問が来たか。実際は、半々だね。人の悩みなんてのは、仕事、家族、恋愛、のどれかに分類されるから。仕事のついては各職種について調べておけば大体わかるのよ。その人の職業聞いて、その分野の景気を想像して、いま大変な時期ですよね、そのとおりです。ってなるのよ。」

 

やはり、占いにも事前準備は必要なのか。それに半々も見えていたらすごいのでは?

ていうか半々ってなんだよ。占いは娯楽で楽しむのが一番だな。と感じた。

 

「どうして、占い師を辞めたの?」

「なんかね、最後の方どうでも良くなって、恋愛の占いに男の子が来た時に、

タロットを切りながら、"知らないよ、告ればいいじゃん"と思ってしまったんだよね。

それに最後は"男なんだからしゃきっと生きろ""占いなんかに頼んじゃない。"って言ってしまったんだよね。

それでお金をもらうのも悪くなって辞めた。」

やっぱり占い師といえど人間なのだな。

もちろん全ての占い師がこの女性のようなわけではないと思う。

しかし、信じすぎるのも毒な気がする。

 

そして占い師の女性たちが席を立つタイミングに

「この世界は占いや、何かに頼って成功しようとするやつが多すぎる。

才能や占いの結果なんか当てにせず、努力することがいちばん大切なんだよ。頑張りな、若きゲバラよ。」といって去っていき、僕たちの会計も済ませてくれていた。

ロックな人だ。

僕たちがゲバラならば、あの女性はカストロだ。

 

最近、一緒に占われた友達から「子供ができた。結婚する。

あの時占われたのと同じ結果だよ。すごくない??」と連絡が来た。

 

僕はあまり占いを信じていないが「おめでとう。やっぱり占いって当たるんや~。」

と無表情で親指を動かした。

目標は標識

目に見えるもの全て、自分が見たいものだ。

それは意識しているものが、見えているのだ。

例えば自分が自動車が好きならば、道を歩いている時に、自然と道行く、車に目が行くだろう。

他にも、ご飯が好きならば、道にあるごはん屋さんが目につくようになるだろう。

自分が必要な情報だけを、意識することで、その情報が入ってきやすくなるのだ。

この法則を利用することで、僕らは何にでもなれるだろう。

 

つまり、夢を持つことで、その夢について意識を向けると必然的に

自分の夢に関する事が目に飛び込んでくるようになるだろう。

 

他にも、場所は忘れてしまったが、海外の果てしない真っ直ぐの道。

その道で一番多い事故は衝突時だという話を聞いた。

衝突事故と言っても、車同士ではなく、標識と車だ。

理由としては、なにもない道。だから途中の道に現れる、標識の方に目が奪われ、

気がつけば意識だけでなく、車も標識の方に向かっていき、結果事故が起こるのだ。

 

上記の話を人生に当てはめれば、

人生という長い長い道のり、その中に目標という標識を建てる。

そうすることで、その目標に意識を向けることにより、自然とその情報が集まってくる。

そして意識を向けることで、体がそっちに向かっていく。

 

だからこそ、趣味や夢が大切なのだ。

“小市民はいつも挑戦者たちを笑う。"という僕の好きな名言がある。

この国では夢を持てば、夢を語れば笑われる。笑う人たちは、自分の夢が叶わなかったから、

自分が諦めた夢を他人に叶えられたら、つまらないから。夢を追う人の邪魔をする。

だから僕たちは、笑われたら、今ボクは努力をできているんだと。思ったほうが良い。

その方が楽しいし、人に左右されずに生きていける。

それに夢を叶えられずに諦めた人の意見に耳を貸すことはない。

そんな人の話を聞く時間があるならば、同じように夢に向かっている人の話を聞いたほうが良いのだ。

 

僕たちは今日が残りの人生で一番若い日なのだから、今なら何でもできるだろう

無趣味

 

 

 上記の2つの絵を買った。

Banksy展に行ってから、ずっとBanksyの絵を飾りたかったのだ。

なんともカラフルで可愛い絵だ。

部屋は青と白と焦げ茶で統一していたものが、一気に崩れ去った。

けれどもなんとも僕らしい部屋になった。

 

僕には趣味がない。なので毎回趣味を聞かれると返答に困る。

時折々に興味のあることはあるのだが、時期がすぎると、別のものに興味が移っている。

熱しやすく冷めやすいタイプなのだ。

一時期は美術館に行くのが好きだった。絵画も歴史も全くの無知だが。

これなんか好きだな、と思った絵の前に立ち、音声ガイドを聞く。それだけで理解できなければ、スマホで絵の題名を検索をする。

その話をすると、「なんで?何が良いの?」や「ぶってる。」と言われた。

自転車にハマっていたときは、「お盆休みの初日に、朝から大阪から京都の友達の家まで、自転車で行きました。」と言うと、「なんのために?」と言われた。

深夜の公園でバスケしています。「一人で?寂しい、どこ目指してんの?」と言われる。

どうやら、周りが納得できる理由がないと趣味にならないらしい。

それから趣味を聞かれると、手垢がベトベトの映画鑑賞と言うようにした。

そうすると大概「ふつう~」と言われた。

けど一つわかったことがある、こうやって人の趣味にとやかく言ってくるやつは、

大概大人数の飲み会で悪口言って。ストレス発散しているやつだ。

そういやつを無視して、深夜の公園でシュートが決まるとスッキリする。

 

けれどやっぱり何か趣味と言えるものを作りたい。

趣味の定義として"興味→好き→ハマる→趣味"だと思っている。

なのでまずは興味のあることから始めてみた。

アメフトに興味があった。NFLの試合をYoutubeでみてから、ハマり、

アメフトをやろうと思った。アメフトのボールを買い、一人公園に向かった。

ボールを投げ、自分で取りに行くことを繰り返した。

「これ、自分が動物園の檻の中に飼育されたとしても、やらないな」と思い。辞めた。

次に、絵画に挑戦した。キャンパスと絵の具を持ち、また公園に向かった。

描けそうなスペースを発見し、ベンチに腰を掛け、絵を書き始めた。

自分の絵のセンスにびっくりした。けれど、アートとは見る人によって捉え方が違うものだ。そう思い友人に写真を送って見せた。友人からの返信は「ごめん、よくわからん。」

数人から同じ内容が来た。辞めた。

 

そもそも本当に趣味なんて必要なのか。

趣味は時間のある老人の楽しみだ。

若者は楽しんだ挙げ句、趣味にはせず自然にそれを極めようとするのではないか?

と思った。そうかなら僕は趣味がなくて良いんだ。

 

あれ?ちょっと待て、僕は何も極めてないぞ、プロではないぞ。

かくして僕の思考は振り出しに戻った。

今週末僕は"興味→好き"という領域に達している、スノボーに行く。

 

 

 

評論家気取り

映画が大好きだ。辛いことや一人になりたいときは、学校をサボって映画館に行っていた。

見たい映画があるわけでもない、それでも一人になりたいときは、映画館に足を運んだ。

ポップコーン塩味とゼロコーラの氷少なめセットを持って、席につく。

見終わった後、僕は主人公と同じで、世界を救い、ヒロインと恋をしていた。

 

僕は悦にはいってると思われるかもしれないが、洋画しか見ない。

邦画を全く見ないとかではないが、ほぼ見ない。

 

洋画と邦画で毎回思う大きな違い。

それは、洋画の主人公は大体大人なのだ。もちろんスクール物も存在するので、全部ではないが。

けれど、恋愛映画にしろ、ヒーローものにしろ、大人が活躍する。

バリバリ、仕事をし、気の合う仲間と酒を交わし、恋をする。

それに、学生を学生として扱っている。

 

僕が印象的なのは「アベンジャーズ」シリーズで、高校生のピーターパーカー(スパイダーマン)

を戦いに参戦させないようにする、トニースタークだ。

映画の中で何度も、「家に帰れ」といい、ピーターがそれを聞かずに、戦いに入ってくるというものだった。

どれだけ強大な力を持っているにせよ、やはり高校生なんだな。と考えさせられた。

 

それに比べ邦画は、高校生が主役だ。ひょんなことから世界の命運を握る高校生。

それが小学生や幼稚園生のときもあるくらいだ。そしてその敵は毎回大人なのだ。

大人の邪悪な野望を純粋無垢な子供が正す。のが多い流れだ。

 

まるで、大人は間違っていて、子供が正しい。と言っているようなものだ。

そして、まるで人生の主役は子供と言わんばかりだ。

そして多分僕は邦画の映画が眩しかったのだと思う。

キラキラした青春を送り、部活動、恋愛に勤しみ

自分のやりたいことを見つけひたむきに努力をする。

そんな映像が眩しくて、遠ざけていたのだと思う。

 

そして僕は、評論家気取りのように、邦画は面白くない。

あんなの、美男美女しか務まらんやん。と周囲と話していた。

類は友を呼ぶとはよく行ったもので、友達も「わかるわ、なんか見てられないんよな。」

と話していた。

Twitterでも検索すると同じようなことを言っている意見が多かった。

 

その瞬間僕は、ふと我に返った。僕はどの目線から、評価しているのだろう。

消費者として?映画好きとして?

 

そういえば、寮の食堂で、お笑いの番組が流れていた時に、

出ている芸人さんの漫才が面白いなと思っていたら、先輩が「今のは間が悪い。」「笑い待ちが下手だ。」「ツッコミに切れがない。」そう言っていたのを思い出した。

その時の僕は、何様だ。お前の話のほうが面白くないわ、愛想笑いで調子に乗るなと本気で思った。

あのときの先輩と同じではないか。

 

自分はなんにも行動もしないくせに、上から目線で他人のことを評価する。

そうすることで、他人の目が気になり、言いたいことが言えない、行動したくてもできない。

同調圧力や、空気の読み合いになっていしまい、息継ぎしにく世界になっていくのだと思った。

世の中にはしょうもない評論家気取りが増えている。

 

ハロウィンの時期に、仮装する人を見るたびに「痛いな」と思っていた。

その時にふと再度我に返り、仮装する人を評価することで、その人達より上に立った気でいないか?といった疑問が浮かんだ。自分はこの世界から外れた世界の住人で、

外の世界から評価して、優越感に浸っているのではないか?

 

翌年の高校3年生の時に、ゴーストバスターズの格好をして

ハロウィンの日にユニバに行った。

これがイベントごとに参加することか、少し恥ずかしかったが、

普通に行くユニバよりも楽しかった。

その翌年は全員で服を揃えて、ユニバに行った。

この世界の住人になれた気がした。

その挙げ句、調子に乗ってしまし、ユニバのスタッフに怒られた。

そしてスタッフさんが「20代男性グループ、注意しました。」

と、インカムでいっているのが聞こえた。

仮装をしたからだな、老けて見えたのは。

最近のカフェ事情

カフェで作業するのが好きだ。 集中できるし、周りの人の会話はおもしろい。 最近の女性は性に対して寛大なのか、 昼でも夜でも関係なく良く夜の営みについて話が聞こえる。 (ご飯行きますー、Bar行きますー、ワンナイトしますー)

という会話がそこそこの声の大きさで聞こえてくる。 そんな事があってもカフェが好きだ。

英語の勉強をしようと思い、サンマルクに行った。 店内に入り、ロイヤルアイスミルクティーを注文した 「サイズは何になさいますか?」
「Sで」

「当店はワンサイズなんです、380円です。」 なんで聞いたんだろう。

根はいいやつ

中学校の頃、ヤンキーとよく行動していた。

昼休みになると集団の一人がクラスまで迎えに来て、「理樹、図書館行くぞ」そう言われ、

リードに繋がれた犬のように自分の意志はなく、連れて行かれる。

昼休みは、毎日のように図書館に足を運んだ。友達とミッケをしたり、図書委員専用の仕事である、

貸し出しのバーコードを読み取る仕事をさせてもらった。司書の先生とも仲良くなり、おすすめの本を紹介してもらい、毎朝の朝読で読み勧めていた。そのかいがあってか、有名な小説はだいたい網羅した。僕が仲良かったヤンキーたちは、授業に出ずに監視役の先生がいる根っからのヤンキーではなく、授業には出席し、授業崩壊を引きおこす、面倒くさいタイプのヤンキーだった。

中学校3年次は受験も控えているのに、授業は荒れていた。

ヤンキーたちは野球推薦で高校が決まるタイプの人たちなので、授業の成績などは関係なかった。

 

そんななか僕はというと、テストの点は80点平均の400点、体育の成績はAバッジ(Aバッジはその県特有のものらしい,体力テストで一定数の点を取ればもらえるというもの)いわば器用貧乏な奴だ。

それでも内申点は3か4。提出物を全く出していないからだ。

もし自分が先生ならば、こんな生徒は大嫌いだ。授業はあんまり聞かず、提出物は出さない。

けれどテストの点はそこそこ良い。

 

ヤンキーとつるんでいたことや日々の行いが原因で、勉強ができないやつとレッテルを貼られたこともあった。なので僕テストの点だけを見ると、「意外に賢いんだ。」といった評価が下される。

その結果、「あいつは根はいいやつなんだけど」「根は真面目何だけどな」とよく言われていた。

 

果たして、「音はいいやつ」は本当に良いやつなのか?「根は真面目なやつ」は本当に真面目なやつなのか?

本当に良いやつなら、授業はちゃんと聞くだろうし、根が真面目なやつなら、提出物もちゃんと出すだろう。ならばなぜ根はとつけるのか。多分それは、大人から見れば悪ぶってるやつ。に見えるのだろう、ヤンキーとつるむ無理をしているあの子。身の丈にあっていないことをしているのだろうと先生たちは心配していたのだろう。

本当の君はそっちの世界ではないよ。「根はいいやつ」と言われるたびにそう言われてるような気がしてた。

中学3年生、先生たちが望んでいた僕が現れた気がする。受験を控え、成績を上げるために、真面目に生活をした。授業を聞き、発表をし、提出部を出した。テストの点は大して変わらなかった。

授業では、ヤンキーが荒らす。僕は参戦しない。その結果相対的に内申点があがっていた。

ヤンキーたちを利用したのだ。

3,4平均だった内申点は全ての教科で5に近い結果だった。(音楽だけ4だった。音痴だった。)

しかし、その結果虚しく、高専の推薦は落ちてしまった。学校の先生は「お前は一般で受かる。」そう言い続けてくれた。

そのかいもあってか、一般で合格した。

先生たちは「やっぱ、お前は一般で受かると思っていた」 「そもそも推薦は期待してなかった。笑」と嬉しい言葉をかけてくれた。そのときには「根はいい子」と言われなくなっていた。

高専の合格は他の人地たちより早く決まるので、他の人達より早く受験勉強から開放され自由が来た。

僕はまたヤンキーとつるみ始め、音楽の時間に野球をしたりしていた。

「根はいい子なんだけど、、」その言葉がまた聞こえるようになった。