人生の指針

頭を整理するために思ったことを書いてます

やらない後悔より、やる後悔

試合終了を告げるブザーが鳴った。2分割される世界。

勝者は喜び、敗者は悲しむ。

僕たちは後者だった。

チームの中でも涙を流す人もいる。当然だ。負けたのだから、悔しいのだから。

けれどそれだけではない。僕たちの小学校のバスケが終わりを告げた。

 

小学4年時に4年間続けてきたサッカーを辞めた。小学校5年時は朝から夜まで、友だちと遊び続けた。

木曜日の夜は、幼稚園の頃からの友達が家に来て、一緒にアニメを見たりゲームをした。

その友達と僕の姉は、近くのバスケクラブに所属しており、友達のお母さんはコーチをしていた。

だから、友達は僕の家でその時間を過ごし、一緒に姉を迎えに行き、解散するのだ。

けれど、ある日を境に友達が来なくなった。毎週の楽しみであった、木曜日の夜は何食わぬ日へと変わり果てた。一方でその友達は木曜日がより輝かしいものになっていた。

彼は姉たちと同じバスケクラブに入部した。

僕は毎週姉の迎えついでに、バスケの見学をしていた。見学というより、練習が終わった後に、バスケットボールでサッカーを始めた。そのバスケクラブは男女で監督が違う。

ある日、いつものようにサッカーをしていると、男子の監督が1VS1を申し込んできた。

男子の監督だが、女性だった。けれどその監督はめちゃくちゃに熱血だった。

僕は、1VS1を受けた。密かに姉についてバスケの練習をしていたので、正直勝てると思っていた。(これは甘い見積もりだったと今でも思う。)

 

僕はぎこちない感じで右手でドリブルを始めた。そして少しずつ進んでいき、タイミングをみて右手でバスケットボールを囲いながらのロールで抜き去ろうとした。

目の前にはリングしか見えなかった。

勝ったなと思ったのもつかの間、正面を向いた僕の体から、ボールは離れていた。

気がつくと監督がボールを奪い、きれいなレイアップシュートを決めていた。

「全然だめじゃな。」そう言われ、監督は立ち去った。

僕は愕然とした。勝てると思っていた、相手にこんなにも屈辱を味わわされるなんて。

僕はバスケなんてやらないと決めた。才能がないと思ったからだ。

けれどもどこか、心でふつふつと湧き上がるものを感じた。監督を倒したい。その思いだったと思う。

そして僕は、友達の誘いや、親の助言もあり、僕はバスケを始めた。

その頃には監督を倒したいと思いはなく。素直に尊敬していた。

僕は小学5年時の終わりにバスケを始めた。その年に1個上の世代が全国大会に出場した。

初めての偉業だった。僕の友達は背が高く、努力をして試合に出れるようになっていた。

その時に僕はスタートダッシュが遅れたことに後悔もした。

全国大会に出場するということは、引退が伸びる。つまり新チームのスタートが遅れるということだった。もちろん僕たちの代の人とたちも試合に出ていたので、いい経験になったと思う。

僕はそのときには初心者ということもあり、低学年の子たちと基礎練習をしていた。

全国大会が終わり。ようやく僕たちにスポットライトがあたった。僕の友達はキャプテンになった。(これが後にさまざまなことを巻き散らかす。今回は記述しない。)

僕も2Qだけ試合に出れるようになった。ミニバスは中学高校と違い、1人最大3Qまでしか出れない。

つまり1Qに出る人。2Qに出る人。3Q、4Qに出る人がいる。(基本3Q,4Qはそのチームのベストメンバーが出る。)

僕は2Qしか出れなかった。2Qでは友達も一緒だった。

けれど基礎もない僕はミスも多く。うまく行かなった。呆れた監督は5人ででていたが、

友達と僕の代のもうひとりの友達2人で試合をするように指示をした。

僕たちにボールを触らせず、二人でパス交換をして試合を進めた。

屈辱だった。いやそれ以上だった。もうやめようとまで思った。

試合に出るのは人数合わせのためだった。そう思えるほどの試合だった。終わった後も、保護者に怒られる。「あんたがだめだから、あんな感じになったんよ。あんたのせいよ。」

大げさかもしれないが、死にたかった。誰も励ましてはくれないし、慰めもなかった。

僕たちは小学校の昼休みや放課後に、みんなでバスケをしていた。

その試合以降、僕はそこに顔を出せなかった。

 

昼休みも教室にこもり、放課後も家にこもった。

友達は心配して家に来てくれた。みんなで話して。努力をすることにした。

たくさん練習に付き合ってくれた。

(今でもみんなのことが大好きだが、それはこの日からだったと思う。)

僕は、基礎がなっていないので、ドリブルとかではなく、

誰よりも走り、DFで貢献することを心に決めた。

 

そのかいがあってか、どれだけ暑い夏の日でも、

監督やコーチから「理樹が一番走っている。」や「理樹が一番DFうまい。」とまで言われるようになった。そして3Q,4Qも試合に出れるようになっていた。

僕は友達を信用して、リバウンドを取る前から、相手ゴールに走り、友達に投げてもらい、

速攻でレイアップを沈め、幼稚園からのホットラインが完成した。

DFでは相手のエースをマークし、相手チームがリズムに乗れないようにした。

 

そして、ある程度なれてきた頃にドリブルが少しでき、相手を抜けるようにもなった。

僕たちは県大会や他の県の大会でも良い結果を残せるようになった。

(優勝こそなかったが、2位にはなったことがあるくらい)

 

そして最後の試合がやってきた。

相手は、監督同士の仲がよく、何度も練習試合をしてきたチームだ。

記述していないが、僕がベスメンとして出れるようになったのも、このチームとの練習試合のおかげであった。(練習試合では勝ったり、負けたりしていた。)

 

試合が始まった。1Qは耐える時間帯で2,3,4Qで逆転する僕たちのチームの作戦は1Qで良い出だしを切った。

2Qは僕の番だった。試合にもなれてきた、これで最後になるかもしれない。

僕を拾ってくれた、監督に恩返しをするという気持ちで望んでいた。

しかし、試合内容は、そんな強気な思いも裏腹に慎重な試合内容だった。

監督が「中開いてるぞ!!理樹切り込め!!」

その言葉ははっきりと聞こえていた。けれど僕の選択肢はパスだった。

最後の試合、負けたら引退。そんな思考回路の中失敗を恐れたのだ。責任逃れをした。

中に切り込めば結果が変わったかもしれない。

そのまま、中に切り込むことも、無茶をすることもなく、試合内容で言えば、

影のような結果で試合が終わった。

チームメイトは悲しんで、泣いていた。僕は涙も出なかった。試合後に溢れてきたのは後悔の念だった。なぜあの時に切り込まなかったのか。なぜシュート打たなかったのか。

その後悔は22歳の今も消えることはない。たまに思い出して、後悔をする。

 

結果が変わらなくても、後悔はなかったのか。けれどシュートを打っても、後悔をしていたかもしれない。それでも、やらない後悔より、やる後悔の言葉通りだ。

 

僕はあれ以来、やらない後悔をしないようにしてきた。

どうせタラレバで苦しむのなら、やってしまえばいい。その方が楽なのだ。

やった後悔は、今思いだそうとしても、そんなに思い出せない。

やらない後悔は、思い出そうとしなくても、僕の心を苦しめる。

 

そんな僕は明日、初対面の人達と2年ぶりにバスケをする。

やらない後悔よりやる後悔だ。

最近の趣味

プロレスにハマった。ハマったきっかけは中のいい後輩が、

「お願いだから、この選手の入場シーンだけ見てください」と言われ、興味もなく見た

登場シーンがかっこよすぎて、家に帰り、プロレス動画をあさりまくった。

猪木の時代から、闘魂3銃士から暗黒時代のプロレス。

男の戦いだし、何よりも熱い。

 

そしてプロレスには物語がある。

 

プロレスを見るまでの僕は「勝つ」「負ける」の二元論だった。

勝つ人は、努力をし、才能があり、運がある人

負ける人は、祖力を怠り、才能はなく、運もない人。と思っていた。

けれど、自分の中で、負けを物語として消化するということ。

負けにもこんな負け方があるんだと。衝撃を受けた。

 

更に中村選手のインタビューにも同様な衝撃を受けた。

同期であった”棚橋選手""柴田選手"に負けた後のインタビューで

「棚橋に負け、柴田にくらい、くるね。」

失敗や負けたことに対して、「くるね」の一言で終わらせるんだ。もちろんインタビュー向けの言葉かもしれないが。

なんか救われた気がした。

僕は、学校や会社でミスや失敗をしても、「くるね。」で終わらせるようになった。

 

プロレスを見ることで、あったく新しい価値観が追加されたり、価値観がアップデートされた気がした。

 

それに今活躍している選手や、昔活躍していた選手でも、自分たちのファイトスタイルや、コスチュームを固めるのに何度も挑戦をしていた。

最初は白パンで戦っていた人が、途中から黒パンになったり、

ヒールに転向したりと皆模索していた。

 

大体20題の後半には各々の形が定まっていた。(もちろん。早い人は20再前半で定まっている人もいる。)

僕はそれを見て、焦らなくても良いんだと思った。

第一線で活躍する人たちも、自分の形、ホントの自分も見つけるまで、時間を催すし、

模索もする、失敗もする。

だから今は様々な事に挑戦しようとも思えた。

 

そして最近眠る前に、よく妄想をする。

自分がプロレスラーになるなら、どんなファイトスタイルだろうか。

僕は多分、白パンで黒いブーツで戦う。熱いプロレスではなく、サイコなプロレス。

表情を一切変えずに、パイプ椅子で相手を殴る。

けれどG1や1.4の決勝に上がった際には、感情を爆発させ、熱いプロレスを相手と取る。

実況で「あの、安田が感情を出した!!!。ごんなぁやすだみたごとない~」と言われたい。

そして、優勝後のマイクパフォーマンスでは、サイコな感じで帰っていく。

 

大丈夫。もし負けたとしても、物語として消化できるはずだし。

僕には魔法の言葉「くるね」があるのだから。

作家の心 童貞の心

作家志望

 

僕の友人に作家の卵の人がいる。その子は元々友達の友達で一緒に御飯に言って息があった。

初対面にもかかわらず、僕の心は開きまくっていた。

「制服が嫌い。」「手酌する意味がわからない。」「お土産に対するつまらないものですが、っている?」

とか隠してきた、本音がバラバラと出てきた。

そうすると「りき君は童貞やんなl!」と言われた。

「いや、童貞じゃないですよ」と言い、話は流れた。

僕たちは連絡先を交換し、後日2人で飲みに行った。

僕が店に入ると、その子は一人で飲んでいて、出来上がっていた。

その子は「あっ、童貞だ!!」と叫んでいた、酒臭かった。

二人で合うときはいろいろな議論を交わした。

そして僕は、またまた「童貞やなぁ。」と言われた。

僕は「何度も言うが童貞ではないですよ」と反論した。

「ちゃうねん、字義どおりの童貞じゃないんだよ」

その子は続けて「りき君は、色々なことを経験してきて。それってつまり、いろんな女の人を抱き続けているはずなのに、毎回毎回、これで良いのかな?とまるでファーストタッチのように話すから童貞ぽいんだよ。」と言われた。

僕は、手酌をするのが苦手だった。同期の人はすすんでやっていたが、何故か媚びている気がして嫌だった。手酌している同期にも媚びているなぁと思っていた。多分自分で思うことが、自分の行動を狭めているのだと気づくのは、もう少し後だった。

 

「りきくんは、私達からすれば、そんなの常識じゃん?と思うようなことにも平気で驚いている。

それって普通の人たちが一番最初に忘れてしまうようなことだから、」と説明してくれた。

なるほど、童貞とはそういう意味だったのか。と驚愕した。字義どおりに捉えていた自分を少し恥じた。そして全てにおいて敗北を感じた。勝ち負けなどないとは思うが。

 

そして初めて僕はこんな人になりたいと思ってしまった。

 

そして僕は「言葉をうまく扱えるようになりたい」とその作家に言いながら手酌をした。

「私なんかまだまだだよ。でもね、私も君の発言の言葉一つ一つに教養の高さに驚くこともあるよ?りきくんの話はいろんな映画や歌詞・本の一文を引用して人に伝えているよね。それってすごいことなんだよ」

 

嬉しかった。僕は恥ずかしいので誰にも言えずにいたが秘密を二度目ましての人に見破られてた。

それを人に気づかれたのは、初めてだった。

 

そしてまた僕は、敗北を喫した。それにきづけるということは、その作家も僕と同等、いやそれ以上に教養があるということだから。

みぞおちにストレートをくらい、立て続けにアッパーを食らわされた感じだ。

 

そして小説の書き方やいろんな話を聞いた。

 

僕は、捕食動画を見るのが好きだった。

ライオンがガゼルを捕食する映像を見た。ガゼルが可愛そう、ライオンは悪いやつと安直な考えを持っていた。

しかしある日、ライオンのドキュメンタリーがテレビでやっていた。小ライオンが飢えている、

そこにたまたまガゼルがやってきて、小ライオンたちにとっては、命が救われた瞬間だった。

それを見て衝撃を覚えた。「うわぁ、嫌なものを見た。ライオンが悪者ではないじゃない。」

と思ったのだ。ガゼルを主役に小説を書くのであれば、ライオンがなぜ、ガゼルを狙うのかにもフォーカスを当てて書くのが、小説だ。

 

これを考えてから、世の中の犯罪の見方が全て変わった。加害者が悪いのはもちろん、なのだが。

なぜ加害者がそのような行動を起こしたかも想像するようになってしまった。

作家への第一歩だ。とその子は言っていた。

 

話は恋愛の話に移り変わっていた。

その子は「私は自分の誕生日に牛丼屋でも許せるタイプだ。」と豪語し始めた。

その意見に対し、僕は「そんな人はいない。いたとしても、1万人に1人の割合」といった。

「視野が狭い!私の周りにはそんな人ばかりだ!譲っても10人に1人の割合だ!」

「それはない、断じてない!!」と水掛け論になっていた。

そして最後に「まぁ、童貞の意見だもんな」

その発言にはメタファーなんて一切なかった。

勉強をする理由

様々なことに疑問持っていた。

「なぜ、制服を着るのか。」「なぜ、勉強をするのか。」

「なぜ三角形の内角の和は180°なのか。」

先生が数学の時間に、「三角形の内角の和は180°です。」

という発言に対して、疑問を持っていた人はクラスに何人いたのだろうか。

授業が終わり、クラスで一番頭の良かった子に、「三角形の内角の和が180°ってなんでなんだろうね。」と聞いたら、「そういうもんなんじゃない?」と言われた。

 

なるほど。他の生徒はそういうものと言うことにして、疑問に持たないようにしているのか。

けれど僕は疑問だった。そういうことにして良いのだろうか。学校の先生にこういう話をすると、

「そういうものなのだから、そう覚えていたら良いよ。」と言われた。

覚えるために、理解しようとしているんだろうが!と内心怒りを覚えたが、

「わかりました。」という言葉をお礼代わりに伝えた。

 

僕は小学校6年生の頃から塾に通っていた。

僕は塾の先生が好きだった。

何でも答えてくれるからだ。先生は博識で、優しい人だと印象だった。

中学生にもなると、周りの生徒は有名な進学塾に通っていた。

けれど、僕と友人数人は、夫婦で営んでいる、こじんまりとした個人塾だった。

集団で受けるのではなく、個人で英語、数学を45分ずつ受けた。

先生の奥さんは元英語の教師だったので、英語を担。

先生は数学がメインだが、やりたいことがあればそっちを優先的にしてくれた。

他の塾とは違いありがたいことに融通が効いた。

塾の場所も夫婦の実家で、中学校から徒歩5分もかからなかった。

受験シーズンやテスト週間には、学校帰りにコンビニに寄り、おやつや冬にはおでんを買い、

たまり場として集まっていた。

徒歩通学だが、塾に自転車を止めて通学していたこともあった。

 

先生は、僕たちの代をうるさかったけど、一番思い入れのある代と卒業式の日に言ってくれた。

確かに、勉強に来ている真面目な小学生がいるのに、

自分たちのことで騒ぎ散らかし、怒られることもあった。

そのたびに勉強に来ている小学生に、こんな中学生にはなったらだめだよ。と言っていた。

けれど、その発言をする先生の声は嬉しそうだった。(あきらかに怒りのときもあったが)

 

先生は自作のPCゲームで、英単語を入力したり、理科、社会の穴埋め問題を作ってくれた。

しかも、それは満点の場合、タイムが乗り、最速の人は名前が刻まれる。

負けず嫌いの塊であった、僕たちの代はその勉強方法に夢中になった。何度もとき直し、タイムを競い、名前を更新しあっていた。

 

そのかいもあってか、僕たちの代は全員志望校に合格した。

 

僕は、先生に様々な疑問をぶつけていた。先生はその都度、「確かに。」とうなずきながら、

数学の時間を削りながら答えを解説してくれた。

「三角形の内角の和の証明」をわかりやすく示してくれたり、

「制服を着ることになった歴史」を説明してくれた。

数学や理科のことだけでなく、時事問題にも詳しく教えてくれた。

その日に答えられないことは次の日には理解し解説してくれた。

多分先生は、僕の人生で出会った人の中で一番頭が良い。(暫定ではあるが)

 

僕は先生に世界の疑問を嘆き、説いてもらい、自分の中で咀嚼し、

こういうことですか?返す。先生は「りきくんは賢いな。」と褒めてくれた。

 

なぜ、勉強をするのかの答えは自分で見つけることができた。

 

「先生!!勉強するということは動揺を抑えますね。」

「それが勉強をするということだね。」

牡蠣になりたい

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仕事で過労死。など最近になってよく耳にするようになった。

最初は、暴力など当たり前で育った、役員。ゆとり教育で生きてきた、平社員。

時代の温度差で問題になっているのだな。と思っていた。

そして失礼なことに、どうして逃げなかったのかなとも思っていた。

逃げることにも勇気がいるし、周囲からのプレッシャーなどが重なり、

逃げたところで同じかもしれない。とも思えるし、

その決断ができないほど追い込まれていたのかもしれない。

会社からリストラされて、自殺する人もいるようだ。

 

まるで社会が全てのような感じだ。

人間には生きる理由が2つあると思う。

1つ目は、何かをしているから存在しても良い。

仕事をしているからその会社にいてもいいって思えることだ。

 

2つ目は生まれてきたから。何もしていなくても存在していいということ。

上記に上げた人たちは1つ目の理由が全てだと思っていたのでは、と思った。

リストラされたから、家族にから社会から存在する理由を与えられなかったから、

自分の命を終わらせる。何もしなくても存在していいのにも関わらず。

だから人を襲うと警察に捕まる。それは2つ目の生きる理由を侵す行為であるから。

僕たちは1つ目の理由の大切さばかりを教わってきた。本当に大切なのは2つ目の理由であるというのに。

 

僕は日生に牡蠣を食べに行った。

牡蠣がザルにいっぱい入り売られていた、それをBBQスペースで焼いて食べられるのだ。

そこで牡蠣を売っている人に牡蠣ってどうしてこんなに多いの?捕まえるの簡単なの?と訪ねた。

「牡蠣はね岩肌にくっついて、一生を終えるんだよ。人が来ても、剥がされるのを待っているんだ。」

と教えてくれた。「まじかよ、牡蠣、逃げろよ。」と思いながら、牡蠣を焼いて食べた。

 

 

僕は、1つ目の理由を増強して生きようとしていた。そのため様々なことに挑戦する。

楽しもうとする、なにかに認められるために、自分の存在価値を探すために。

けれどそうじゃなかった。

何かをしていることに意味はないのだ。意味がないからこそ、”せっかく”なので楽しむのだ。

楽しいことをするのだ。

僕に、僕たちに必要なのは2つ目の生きる理由をもっと感じることだ。

 

もし僕が明日、全財産を失おうとも、会社をクビになろうとも、

存在して良いのだ。

 

カフェへ向かう足並みが軽かった。

すれ違う人全員、あの人も、あの人もみんな存在していい人たちなのだ。

もちろん僕も。

こうなれば目指すものは、何気ない日常を楽しめる人。

僕は牡蠣になりたい。

価値観と本音

「価値観が違うから」という人が嫌いだ。

人と人が議論をする際に、価値観が違うことを前提に話をしなければならない。

それでも、自分の意見が否定されたら、「俺とお前は価値観が違うんよ」という人がいる。

だから、議論や会話の中で、その言葉が出てきたら、僕は「価値観が違うなら、この会話や議論も意味ないね。」と言い議論や会話を切り上げていた。

何を言っても価値観が違うのだから。

 

そもそも価値観が違うことなんて、前提条件だと思っていたからだ。

中学生の時にならう、合同条件の証明する時の仮定と同じだ。

“価値観が違うことを前提とし、この会議の結論を導き出せ。"とでも言わなければわからないのだろうか。

 

僕は、高専時代に、文化祭の実行委員を4年次のときだけやった。当日は参加できなかったが。

当時の友達が実行委員長をしていて、3年次のときから自分たちがメインとして動く、

来年の文化祭に向けての準備で頭を抱えていたので、相談に乗っていた。

ある日、授業が終わり、寮に戻ろうとしていたら、実行委員長が「今日16:30から選択教室1に来て」と言われた。何があるのかも知らずに、時間より少し前に教室に向かった。

そこでは、文化祭実行委員が何人か集められていて、

僕は気がついたら委員会に入会し会議に参加していた。

毎月の定例会議で、体育館に野外フェスのようなステージを建てる話になった。

毎年お願いしているところは、学校がある時間にバイトにこさせるし、ステージを建てるお金が異様に高かった。そして、バイトに出てくれる人が少なく、委員長が学校をサボってバイトに行っていた。そのバイトのことで毎度喧嘩をしていた。

(僕は一度も行かなかった。)

 

そして、それに異を唱えた数名が他の会社で見積もりを取ると、半額以上の値段で、バイトもなしでステージが建てれた。

しかし、自分の代で失敗することを恐れた数名がそれを断固拒否し。しばしの冷戦となった。他にも様々なことが重なり、実行委員が大きく割れ始めた。

そういった雰囲気の中で委員会の定例会議や各部署の個々での話し合いが行われていた時に、僕は同じ部署の人達と話していると、

委員の誰かが、「お前とは価値観が違うんだよ。」と声を荒げていた。

委員会が行われていた、教室は静まり返った。

 

そして僕たちは「価値観が違うことなんて、前提条件なのにね」「そんな事言われたら、何も言えんよね」と部署の人たちと話をしていたら、

声を荒げた委員の人がこちらを”ギロッ"と睨み教室から出ていった。

 

 

価値観が違う。この言葉は使うのは簡単だし、凡庸性もある。

けれど、殺傷能力が高い言葉なので、僕は使わないようにしている。

他人の価値観についても否定も肯定もしないようにしている。

触る神に祟りなしだ。

 

けれど時々、自分の価値観って??と思う時がある。

そんな時僕は、喫茶店ロイヤルミルクティーを頼み、腕組をして

疑問を抱いている先輩の価値観、親や兄弟の価値観、友人の価値観

隣の席で愚痴を吐き続けている、見ず知らずの価値観を徹底的に否定してる、

そうすることで、自分の価値観を浮き彫りにし、本音の再確認をしている。

 

一段落し、価値観を浮き彫りにし、本音の再確認が済んだら、

毎回の宿題である解けない難問に取り掛かる。

 

「価値観が違うから。」これに対する適切な返答を。

"太陽の塔"と"目"

"太陽の塔"が見たくなった。何回か見たことはあったが、対して興味もなく

横目に流す程度に見ていた、理由はわからないが無性に見たくなった。

 

こうなったら、話は早い。僕は早速車を出し、洋楽を流し万博記念公園に向かった。

車をしばらく走らせ、万博記念公園の近くまでは来た。しかし、夜の公園は門が閉鎖されていて中には入れず、走る車内からは、金色の顔が公園に生い茂る木々の上からひょっこり顔を出しているだけだった。

今思えば、モノレールの駅からなら見えたのだろうな。

 

"太陽の塔"は1970年に開催された日本万国博覧会のシンボルとして芸術家の岡本太郎さんによって作られた。

万博のテーマであった「人類の進歩と調和」に異を唱えた太郎さんが

万博全体に睨みを利かせるように作ったとされている。この逸話が僕は大好きだ。

 

走る車内からは依然として、金色の顔しか見えない。

諦めて家に帰ろうと、バイパスを走っていた。

すると僕の横目に、ほぼ全身の太陽の塔が視界に飛び込んできた。

突然の事で少し驚いたのと同時に、少し怖かった。けれどもどこか興奮をしていた。

車を止めてじっくり見たいと思ったが、車を停める場所もなく、またもや横目に見るだけだった。

けれど、今回の太陽の塔は今までと感じるものが違った。

 

"太陽の塔"には余白がないと言われている。あれだけ大きな作品を作る際には間延びする部分が多少でてしまうものらしいが、太陽の塔にはそれが一切ないと言われている。つまり太郎さんの100%の情熱や思いがあの70メートルに作品にぶつけられているのだ。そしてそれが50年以上立ち続けているという魅力がある。

 

胸中からあからさまな勇気と情熱が突如として湧いてきた。

この感情は以前も感じたことがあった。

 

そうだ!!ベトナム戦争博物館に行ったときと同じ感情だ。

ベトナムインターンシップをした時、休日に一緒に参加した友人とベトナム戦争博物館に行った。、博物館内で壁にかけられている戦時中の写真。そこに写っていた人に"太陽の塔"を見たときと同じ感情を抱いたのだ。

詳しい話はいつか書こうと思うが、結論から言うと”目"が違った。

 

現代の人は良くも悪くも”平均寿命まで平均的に生きる"ような目をしている。

つまり明日が高確率でやってくる生き方をしている。

しかし、戦争博物館でみた写真に写る人たちは"自分の命をギリギリまで使って生きる"

ような目をしていた。

つまり明日死ぬかもしれないという覚悟を持った生き方だ。

それを見た時に、言葉が出ずに、湯水の如く溢れ出る、感情や思考がまとまらなく、呆然としていた。

 

その感情が太陽の塔で、岡本太郎さんの情熱で思い出され、僕はまた呆然としていた。

しかし、 帰りの車内で流れる洋楽の音量だけが大きくなっていた。